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 「特別出演」「友情出演」という言葉が映画ではよく使われる。どんな場合がこれに当てはまるのだろうか?
 まず「特別出演」である。映画には出番は少ないが重要であるという役どころがある。そんな役は演技力のある大物俳優が演じることになるが、主役ではないため、その名前をポスターなどの頭にもってくることはできない。そこで、敬意を表して「特別出演」という断わり書きを入れるのだ。
 一方、「友情出演」の場合は、端役で顔を見せる程度のことが多いが、読んで字のごとく、監督や主演俳優との’友情’関係から出演したという意味合いがある。その場合のギャラは、特別出演とは比べものにならず、車代程度か、まったくのノーギャラというケースもある。
 この両者、一番大きな違いは、ギャラといえるかもしれない。

 時代劇の撮影所といえば、京都.太秦にある東映の京都撮影所が知られる。現在、テレビ時代劇の大半は、この京都撮影所で撮影されているというが、これは昔から京都に撮影所があったというだけでなく、今となっては、もっともな理由があるのだ。
 それはロケ地の問題。時代劇では、道路が舗装されていてはダメだし、街道の向こうに高層ビルや高圧線の鉄塔が見えてもダメである。こうした条件を満たす所は、東京にはほとんどない。
 その点、京都は、開発が進んでいるとはいえ、東京ほどではない。市街から西に行けば、竹林もあるし、海のシーンが欲しければ、近くに若狭湾や琵琶湖がある。こうした水辺には、利根川の河原に見立てる葦のしげった所もあるというわけだ。

 同じ映像作品を作るのでも、テレビは「制作」といい、映画は「製作」と表記されることが多い。
 本来の言葉の意味からすれば、「制作」には「ととのえる」という意味があり、いかにも芸術作品を創造的に作るというニュアンスがある。一方、「製作」は鉄やモノなどを「こしらえる」という意味で、創造的なニュアンスはない。
 では、テレビ番組を作るほうが、ホントに映画を作るより創造的なのか?
 おそらく、テレビが「制作」という熟語を使ったのは、意地悪くいえば映画に対する劣等感の表われだろう。
 また、映画関係者が自ら「製作」といってはばからないのは、映画は、作る過程がどれだけ芸術的でも、巨額な製作費を投じて、世界を相手に作品を売るのが仕事。これは「制作」などという甘い世界ではなく、まさしく「製作」こそがふさわしいという自負があるからなのかもしれない。
 最近のアメリカ映画からは、人間と動物の格闘シーン、また動物どうしが戦うシーンがずいぶん減ってきている。動物愛護協会の厳しい目が光っているためだ。
 アメリカでは、動物が使われるシーンでは、動物愛護協会の人たちが撮影に立ち会っている。撮影側としては、その立会いを拒否してもいいが、すると機関誌などで叩かれたうえ、最悪の場合は上映禁止運動まで行われることになる。
 実際の撮影は、次のような要領で行われている。まず、動物どうしの格闘シーンはほんの数秒絡み合わせるだけで、それを何台ものカメラで撮影し、そのフィルムをつないで、長い格闘シーンを作っていくのだ。
 一方、人間と動物の格闘シーンでは、人形かぬいぐるみが使われる。
 もちろん、動物の死体を撮影するときでも、実際に殺すわけにはいかない。ほとんどは人形が使われている。
 日本では過去において、犬、猫、キツネなどの動物モノを比較的気楽に作ってきたが、最近はやや監視の目が厳しくなってきている。
 映画の都といえば、アメリカはロサンゼルス郊外にあるハリウッド。そのハリウッドの山の中腹に「HOLLYWOOD」という看板が立てられているのをご存じの人も多いはずだが、あれは、じつは不動産広告の名残である。
 今から一○○年以上前のこと、不動産屋を営むある女性が、現在のハリウッド辺りを開発して、新興住宅地として売り出すことにした。そこで、住宅地の名前として採用されたのが、彼女の友人の別荘の名前「ハリウッド」だった。つまり、ハリウッドとは、日本でいうところのケ丘、ニュータウンという、分譲地の愛称のようなものなのである。
 しかし、いつしかハリウッドは、映画産業の一大メッカとして発展。一九七九年には、老朽化した看板を映画人がお金を出し合って建て替えるなど、今では名実ともに映画の都の看板となっている。

 各地の教育委員会が新しい学校の設置を決定すると、学校新設準備室が設置され、校歌の制定作業もそのメンバーであるお役人が中心になって行われる。
 といってもお役人が歌を作るわけではなく、作曲者と作詞者の人選をするわけだ。
 校歌の作曲者に選ばれるのは、たいてい地元の音楽大学の先生あたりである。予算が少ないため、中央で活躍する有名作曲家に頼むわけにはいかないのだ。
 一方、作詞のほうは、郷土出身の文学者をはじめ、大学の教授、詩人などに依頼することが多い。
 校歌には、似たようなメロディー、似たような歌詞が多いが、オリジナリティの乏しさは、こういう作られ方、端的にいえば予算の少なさが原因である。


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