パンやケーキ製造の世界では、小麦粉を中心にして練り上げた生地のことを「ドウ」と呼ぶ。これを油で揚げたものが、「ドーナッツ」である。
 このドーナッツ、古いお菓子であることは確かなのだが、いつごろできたのかは明確ではない。今ではドーナッツといえば、真ん中に穴の開いたものと決まっているが、これは揚げるとき、火の通りがよくなるようにという比較的新しい工夫で、もともとは穴はなく、もっと小さいものだった。
 その小さくて丸い形が、ナッツに似ていることから、生地の「ドウ」と結びつき、「ドーナッツ」と呼ばれるようになったのだ。

 「今川焼き」は、水でといた小麦粉でアンコを包み、焼いた菓子のことで、地域によっては「太鼓焼き」とか「黄金焼き」とも呼ばれている。
 太鼓焼きは、太鼓のような形をしているから。黄金焼きは焼くと黄金色になるからで、これらはじつにわかりやすいネーミングである。
 では、「今川焼き」という名前は?桶狭間の合戦で織田信長に敗れた戦国大名の今川家とは何の関係もなく、江戸の神田に今川橋というのがあり、そこで売っていたことからついた名前なのだ。この菓子が生まれたのは江戸末期のことだから、今川義元は見たこともなかったはずである。
 ちなみに、ドラ焼きは小麦粉や卵で作った二枚の皮の間にアンコをはさんだもの。こちらは、銅鑼の形をしていることからの名前で、非常にわかりやすい。
 チョコレートの原形になるものは、メキシコのアズテック族によって作られた嗜好品で、「チョコラトル」と呼ばれていた。
 この「チョコラトル」という言葉の意味は、「苦い水」。チョコラトルは、カカオ豆を砕いて煮た汁を冷やし、それにコショウなどの各種の香辛料で味つけしたものだったからである。
 この’苦い水’を甘くしたのは、スペイン人たちだった。
 中米を訪れた大航海時代の探検家たちが、疲労回復に効くと飲んだのだが、香辛料の苦さがどうも舌になじまない。そこで、香辛料と同じ分量の砂糖を入れて、飲みやすくしたのである。
 これが、のちに固形化され、英語圏に伝わってから、「チョコレート」と呼ばれるようになった。

 「特別出演」「友情出演」という言葉が映画ではよく使われる。どんな場合がこれに当てはまるのだろうか?
 まず「特別出演」である。映画には出番は少ないが重要であるという役どころがある。そんな役は演技力のある大物俳優が演じることになるが、主役ではないため、その名前をポスターなどの頭にもってくることはできない。そこで、敬意を表して「特別出演」という断わり書きを入れるのだ。
 一方、「友情出演」の場合は、端役で顔を見せる程度のことが多いが、読んで字のごとく、監督や主演俳優との’友情’関係から出演したという意味合いがある。その場合のギャラは、特別出演とは比べものにならず、車代程度か、まったくのノーギャラというケースもある。
 この両者、一番大きな違いは、ギャラといえるかもしれない。

メロ度430

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また大きくなった。はでなネクタイと白の下着
 時代劇の撮影所といえば、京都.太秦にある東映の京都撮影所が知られる。現在、テレビ時代劇の大半は、この京都撮影所で撮影されているというが、これは昔から京都に撮影所があったというだけでなく、今となっては、もっともな理由があるのだ。
 それはロケ地の問題。時代劇では、道路が舗装されていてはダメだし、街道の向こうに高層ビルや高圧線の鉄塔が見えてもダメである。こうした条件を満たす所は、東京にはほとんどない。
 その点、京都は、開発が進んでいるとはいえ、東京ほどではない。市街から西に行けば、竹林もあるし、海のシーンが欲しければ、近くに若狭湾や琵琶湖がある。こうした水辺には、利根川の河原に見立てる葦のしげった所もあるというわけだ。

 同じ映像作品を作るのでも、テレビは「制作」といい、映画は「製作」と表記されることが多い。
 本来の言葉の意味からすれば、「制作」には「ととのえる」という意味があり、いかにも芸術作品を創造的に作るというニュアンスがある。一方、「製作」は鉄やモノなどを「こしらえる」という意味で、創造的なニュアンスはない。
 では、テレビ番組を作るほうが、ホントに映画を作るより創造的なのか?
 おそらく、テレビが「制作」という熟語を使ったのは、意地悪くいえば映画に対する劣等感の表われだろう。
 また、映画関係者が自ら「製作」といってはばからないのは、映画は、作る過程がどれだけ芸術的でも、巨額な製作費を投じて、世界を相手に作品を売るのが仕事。これは「制作」などという甘い世界ではなく、まさしく「製作」こそがふさわしいという自負があるからなのかもしれない。
 最近のアメリカ映画からは、人間と動物の格闘シーン、また動物どうしが戦うシーンがずいぶん減ってきている。動物愛護協会の厳しい目が光っているためだ。
 アメリカでは、動物が使われるシーンでは、動物愛護協会の人たちが撮影に立ち会っている。撮影側としては、その立会いを拒否してもいいが、すると機関誌などで叩かれたうえ、最悪の場合は上映禁止運動まで行われることになる。
 実際の撮影は、次のような要領で行われている。まず、動物どうしの格闘シーンはほんの数秒絡み合わせるだけで、それを何台ものカメラで撮影し、そのフィルムをつないで、長い格闘シーンを作っていくのだ。
 一方、人間と動物の格闘シーンでは、人形かぬいぐるみが使われる。
 もちろん、動物の死体を撮影するときでも、実際に殺すわけにはいかない。ほとんどは人形が使われている。
 日本では過去において、犬、猫、キツネなどの動物モノを比較的気楽に作ってきたが、最近はやや監視の目が厳しくなってきている。
 映画の都といえば、アメリカはロサンゼルス郊外にあるハリウッド。そのハリウッドの山の中腹に「HOLLYWOOD」という看板が立てられているのをご存じの人も多いはずだが、あれは、じつは不動産広告の名残である。
 今から一○○年以上前のこと、不動産屋を営むある女性が、現在のハリウッド辺りを開発して、新興住宅地として売り出すことにした。そこで、住宅地の名前として採用されたのが、彼女の友人の別荘の名前「ハリウッド」だった。つまり、ハリウッドとは、日本でいうところのケ丘、ニュータウンという、分譲地の愛称のようなものなのである。
 しかし、いつしかハリウッドは、映画産業の一大メッカとして発展。一九七九年には、老朽化した看板を映画人がお金を出し合って建て替えるなど、今では名実ともに映画の都の看板となっている。

 各地の教育委員会が新しい学校の設置を決定すると、学校新設準備室が設置され、校歌の制定作業もそのメンバーであるお役人が中心になって行われる。
 といってもお役人が歌を作るわけではなく、作曲者と作詞者の人選をするわけだ。
 校歌の作曲者に選ばれるのは、たいてい地元の音楽大学の先生あたりである。予算が少ないため、中央で活躍する有名作曲家に頼むわけにはいかないのだ。
 一方、作詞のほうは、郷土出身の文学者をはじめ、大学の教授、詩人などに依頼することが多い。
 校歌には、似たようなメロディー、似たような歌詞が多いが、オリジナリティの乏しさは、こういう作られ方、端的にいえば予算の少なさが原因である。


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